自分には、音楽鑑賞という趣味は特にない。

思えばずっと昔、一度だけ女性とのデートで演奏会に行ったことがあったような気がするが
非道く退屈した時間を過ごした印象しかない。
なのに自分は今、三百人は収容できそうな大きなホールにただ一人で座っている。
左右の座席にも、前後の座席にも誰もいない。
舞台には奏者達がざっと数えて八十人近くいる。かなり大規模なオーケストラのようだ。

暫くすると、黒いタキシードを着た指揮者が舞台の袖から出てきた。

こちらに一礼をする

台の上に立つ

奏者達が楽器をかまえる

指揮棒が振れた。

その途端に聞こえたのは…

ヴァイオリンやフルートの美しい旋律ではなく、鼓膜が破れるのではないかと思うような騒音。

金属のものを棒で叩くような、耳障りな音がする。
耳を塞ごうと思うのに、腕が鉛になったように動かない。

騒音は鳴り続ける。

腕も動かないまま、私は振れる指揮棒の先をただ見つめていた。




五分間の悪夢






見慣れた天井があった。
どうやら自分は夢を見ていたらしい。
枕元の明かりをつけて時計を見ると
先程明かりを消してから、ほんの五分程度しか経過していなかった。
それにしては随分と長い夢を見ていたように思う。

着ていたシャツが汗に濡れていて気持ちが悪い。喉が乾いている。

シャツを床に放り、キッチンで水を飲もうと立ち上がった。

目が冴えてしまい、その夜再び眠気は訪れることはなかった。




■■

エドワードが定期報告の為に東方司令部を訪れたのは、ロイの夢見が悪くなって4日目のことだった。
あの夜から、ロイは毎晩同じ夢ばかりを見る。
はっとして目を醒ますと、もう眠気は何処かにいってしまっていて、
そのまま本を読むか、アルコールを摂取するか…
夜が明けるまでの時間をどうにかしてやり過ごすのだった。

『うわ!どうしたんだよその目の下!ひでえクマだぜ?』
執務室に入ってきて、ロイの顔を見るなりエドワードは声をあげた。
目の下に浮かぶ黒ずんだクマ。
『ああ…鋼の。久しぶりだね』
『おう、久しぶり。元気?って聞こうと思ったけど…元気じゃねえよな、その顔じゃ。寝不足?』
『ああ、ここ四日くらいまともに寝ていないんだ。』
『そんなに?え、なんか事件?』
司令官であるロイが寝ていないというと、主な理由として思い浮かぶのは何か緊急の事件を抱えている時だ。
でも、司令部内にそんな緊張感はどこにもなかった。
平和そのものの雰囲気だ。
ホークアイ中尉は後でクッキーと紅茶を出してくれると言っていたし、
フュリー曹長は中庭でブラックハヤテ号に昼食の残りのパンをあげていた。
ハボック小尉とブレダ小尉も先程廊下で今晩飲みに行こう。というような話をしていた。
では何故?とエドワードが小首を傾げると、
『いや…違うんだ』
ロイは首を横に振った。


『…夢見が悪いんだ』


するとエドワードが想像もしないような答えが返ってきた。
ものすごく間抜けな声をあげてしまう。
『…は?』
『だから、夢見が悪いんだよ。』
『何?こわい夢とか?』
こわい夢を見て眠れないなんて、些かロイらしくないとは思うけれど、もしかしたらと思いエドワードは訊いた。
『こわいというか……』


毎晩見る夢の内容を、ロイはエドワードに告げた。


『…へえ、そんなことってあるんだ…、でもあんたが眠れないって珍しいね。よく、ここでも寝てたりすんのに』
エドワードは腰かけているソファを軽く叩いた。
ここで上着を毛布代わりにして眠っているところを、エドワードは何度か見たことがある。
しかもロイが眠るには少々このソファは小さいので、足がはみ出していて寝づらそうだったので覚えていた。
『はは…』
ばつが悪そうにロイは苦笑いをした。
『仕事、たくさんこなしてさ凄く疲れれば眠れるんじゃないの?』
『それはもう、やっているつもりだよ。ほら今日は書類の山がないだろう』
いつもここでロイと会話を交わすとき、書類の山が遮ってロイの声しか聞こえないという状態だったけれど
そういえば今日は視界がクリアで、お互いの姿を見ながら喋っている。
『そういえばそうだ』
言葉の通り、さぼり魔のロイがちゃんと仕事をしているようだ。


会話の切れ目を計っていたように、ホークアイ中尉がお茶を乗せたトレーを運んできた。
『お茶をお持ちしました。大佐もとりあえず急ぎの書類はないので、こちらでご休憩なさってください』
そう言うと、ホークアイ中尉は手早くカップやポットをテーブルに置いた。
『ああ、ありがとう。戴くよ』
『いただきます』


ホークアイ中尉が淹れてくれた紅茶を飲みながら、二人は向かい合っていた。
『鋼のは今回、どれくらい滞在するんだ?』
『まだちゃんと決めないけど、一週間くらいかな?』
『そうか…』
それからエドワードの土産話やロイの近況などを話していたら、あっという間に小一時間ほどの時間が経っていた。

『そうだ…報告書なんだけど、これから図書館で直してもいい?ちょっと調べて付け足したいことがあるんだ』
すっかり失念していたと、傍らに置いてあった封筒の中のそれを取り出して、エドワードはロイに見せた。
『ここの、歴史背景のところが。向こうの図書館で資料探したんだけど、そこ蔵書があんまりよくなくて』
ページを開いて指を指しながらエドワードは説明をする。
『ああ、ここか?構わないよ、付け足すといい』
特に急ぎの報告書というわけでもなかったので、ロイは快くそれを承諾した。
『サンキュー。そろそろ行くわ、俺。』
『相変わらず忙しないな。では、完成したら持ってきてくれ』
『俺は忙しいの!じゃ、また来るな。中尉にごちそうさまって言っておいて』
『わかったよ』




■■■

ドアを後ろ手に閉めて、廊下に出る。
暖房の入っていた部屋にいた為、少し肌寒く感じる。

『夢見が悪い、かあ……』
窓の外の景色を眺めながら、先ほどのロイの話を思い出してみる。

睡眠というものには二つの種類がある。
一つは、ぐっすりと脳が眠っている状態。
もう一つは体は活動を休止しているのに、脳の活動は覚醒に近く眼球運動が見られる。という状態。
夢は後者の状態の時に見るらしい。
エドワードが知っている知識といえば、これくらいだった。
それは人体錬成のヒントになるのではないかと思い、医学書をたまたま読んだ時に得た知識だった。

『でも、随分具体的だったよな。オーケストラだったっけ…?』
ロイの言っていた夢は妙に具体的だった。
自分が毎日見ているような夢は、朝起きたら朧げになってしまいそのまま忘れてしまうものだ。
そんな逐一、内容は覚えていない。



『あ……そういえば』
まだ小さい頃、弟のアルフォンスも自分も五体満足で、母さんも元気だったころ。
ウィンリィが“夢占い”と書かれた本を見ていたのを、エドワードは唐突に思い出した。

(夢はね、心の奥のほうからのメッセージなの。夢にはね、全部意味があるのよ。)

薄緑色のカバーの本を、誇らしげに見せながら幼なじみは言っていた。
(ボク、今日兄さんと釣りをする夢をみたよ。これも、何か意味があるの?)
自分の横にいた弟は、授業の時するように手を挙げて、幼なじみに訊いた。
(まってね、えーと…釣りの夢は、穏やかで、落ち着いた状況になれる事をさしています。だって)
(それって、どういう意味?)
(うーん…それは…)
良い意味が書いてあることは判った。
しかし、それをどうやったら判りやすく説明できるのか、幼なじみは悩んだようで言葉に詰まってしまう。
(アルと俺とウィンリィが喧嘩もしないで、仲良しで。母さんのご飯もおいしくて。いい毎日が送れるってことだよ)
かなり自分なりに意味を噛み砕いたけれど、こういうような意味だろうとエドワードはアルフォンスに教えた。
(そっか!よかったね!兄さん!ウィンリィ!)
アルフォンスはにっこりと笑んだ。
ふたりもつられて笑んだ。

確かに、そのあと穏やかな毎日が続いた。
母さんが倒れたのも、もっとずっと後の事だったから
あの暗示も、当たらずしも遠からず。ってところだったのかもしれない。



『暗示…か』
図書館に行ったら少し調べてみようと、エドワードは思った。
そう決めたら、善は急げだと足早に廊下を歩く。


出口に近い休憩室の前を通りかかると、中で二人の軍人が談笑していた。
普段ならそのまま通り過ぎるのだけれど、よく知った名前が聞こえてきたので思わず立ち止まってしまう。
そんなエドワードには気付かずに、二人は話しを続けている。


『なあ、知ってるか?………マスタング大佐の…』
『え?何、知らない………なんかあったのか?』
『こないだ…五日くらい前だったかな?セントラルから……将軍が来たんだけどさ………』
『すごい………………』
『ああ……なんか時々ついていけないっていうかさ………』
『つーかなんで………あんな俺らより年下の奴の言う事きかなきゃなんねえんだろうな………』


扉を一枚隔てているので、よく聞き取れないが、
とりあえずエドワードが先ほどまで逢っていた人物について悪く言っているという事は判った。

若くして大佐の地位に上り詰めたロイには、敵が多いと聞いていた。
でも、実際のこういう声を聞くのはエドワードは初めてだった。

『言うなら面と向かって言えよ、バーカ』

わざと聞こえるようにそう言って、エドワードは出口へ駆けた。




■■■■

図書館特有の、黴臭いような埃臭いような空気が肺を満たす。
いつも見ている錬金術や医学、歴史の本棚を通り越して、エドワードが向かった本棚には“占い”と書かれていた。
古今東西、信憑性は兎も角として様々な種類の本が集められている。
花占い、星占い、カード占い………
『これかな…』
“夢占い”と書かれた本をエドワードは手に取った。
昔、幼なじみが持っていたものとは違う、臙脂色のカバーの本だった。

錬金術師は化学者だ。
こんな非科学的で根拠も何もないもので、ロイの夢の意味が判るはずもないだろう。とは思う。
これでロイの不眠が解消できるとも思わない。
でも、もしかしたら糸口くらいにはなるのかもしれない。
と、幼い頃の思い出のことを考えながら本を開く。
『あーあ…なんで俺がこんなもん調べてるのかな…えーと…オーケストラは…』


_____暫時




■■■■■

『全く、あれしか言う事はないのか…あいつらは。最近、こんな事ばかりだな』
軍議が終わり、いつもの如く大して力もない将軍達に、あることないことを散々言われたロイは
執務室に戻った途端に椅子に座ると、そのまま頭を抱えた。
嗚呼、眠い。
眠いけれど、またあの夢をみるのではないかと思うと寝たくても寝れなかった。

四日もまともに寝ていないと思考能力が鈍る。
自分の信念を、曲げよう等と思ったことは一度もないけれど、
思考が鈍っているところに、こう毎回激励と言う名の嫌味を言われていると揺らぎそうになる。

最高司令官になってこの国を変えようとしている、自分の信念が。
『はあ…いかんな。これも全部、あの夢の所為だな……』



自分は今、三百人は収容できそうな大きなホールにただ一人で座っている。

黒いタキシードを着た指揮者が舞台の袖から出てきた。

指揮棒が振れた。

その途端に聞こえたのは…



(マスタング君、例の予算の件はどうなっているのかね?)
(マスタング君、こないだの視察の報告書は…)
(頑張ってくれたまえよ……早急に……成果を…)
(………期待しているよ………)



鼓膜が破れるのではないかと思うような騒音。

否、激励と言う名の、嫌味、妬み、嫉み。


先程の軍議での出来事と夢の内容が混ざり合って脳裏に過る。

(一体なんなんだ!)

この間までロイの意見に賛同していたのに、ロイよりも階級の高い将軍が出席をすると掌を返したように反論をする者達。

(頭の悪い振りをして、従順に、それこそ狗のようにそいつらの言う事を聞いていればいいのか?)



そこへ扉をノックする音が聞こえた。
『入りたまえ』
入ってきたのはホークアイ中尉だった。
『軍議、お疲れ様でした。如何でしたか?』
『また煩いことをガタガタ言われたよ。』
『そうですか…。大佐、エドワード君から報告書が。軍議中でしたので私が預かっておきました。』
『ありがとう、読もう』
つい数時間前に別れたばかりだったのに、エドワードはもう報告書を仕上げたらしい。
付け足したい事とやらはちゃんと調べられたのだろうか?



『さて……』
手渡された報告書をパラパラと捲る。
癖はあるが決して汚くはないエドワードの字を目で追っていく。 一枚一枚、丁寧に目を通していく。
付け足したいと言っていた箇所はちゃんと調べられたようで、かなり詳しく記載されていた。
『…なかなかやるじゃないか。』
思わず感嘆の声をあげてしまう。
つい一年くらい前まで、とんでもない報告書を提出してきていたというのに
ここ数カ月で確実に分析力も文章力もうまくなってきている。
『子供は成長が目に見えているから、たのしいな……』


すると、最後に白いままのページが入っていた。

『なんだ?』

しかしよく見ると白いままのページではなく、真ん中より少し下の中途半端な位置に文字があった。



そこには………






『俺は、あんたの味方だよ。』



と、書き殴ってある。
『?』

これは一体どう言う意味なのだろうか?
落書きには見えないし、勿論報告書の内容ともなんら関係がない。




(味方だよ?)




若くして大佐の地位に上り詰めた自分に、敵は多い。


嫌味、妬み、嫉み、


汚い感情を汚い方法でぶつける上層部の面々。
味方なんて自分にはいないのだと、思っていた。




(嗚呼、そうか……)




(味方は、いるんだ)




自分にはちゃんと、優秀な部下たちや、セントラルの軍法会議所にいる親友がいて




そして、



そしてこの錬金術師がいるではないか。



どうしてそれを失念していたのだろう。




(頭の悪い振りをして、従順に、それこそ狗のようにそいつらの言う事を聞いていればいいのか?)




(冗談ではない!)


もう自分の信念を、曲げたりはしない。


決して揺らいだりはしない。


ロイは一番後ろのページだけをクリップから外し、それを半分に折って引き出しに仕舞った。

『…まさか鋼のに励まされるなんてな』

心のわだかまりが取れたように、霞が晴れたように、
なんだか清々しい気分になった。もしかしたら今晩は普通に眠れるかもしれない。




オーケストラの夢の暗示

『強い信念を持ってあたれば、必ず味方は現れる』

fin
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初夢を見て思い付いた話。
『メリーゴーラウンド』はエドワードの信念が揺らいでいたけれど、
今回はロイが揺らいだら。という感じで。
結局、お互いに助けられている。
今回は話の流れ的にオーケストラの意味を取ってしまったのですが…
他にも『コンサートに行く→緊張からの解放や休息の必要』っていう意味もあるらしいです。
夢って深いな…そしてむつかしい
20060106

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